酔眼的日常を写真日記でつづります。リンクフリーです。写真の無断転用は禁止致します。


by whosanf
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カテゴリ:人( 8 )


令和元年8月9日。



西山 進  昭和3年3月25日生まれ(91歳)



長崎市の三菱造船所の養成工として働いている時に被爆。

幼い頃から絵が好きだった西山さんは、原爆症に苦しみながら

炭鉱夫、浮浪生活と職を転々とした。

東京でプロの漫画家として政治風刺漫画や労働者に

寄り添った漫画を描き続けた。

1979年11月から被団協新聞に4コマ漫画

「折鶴さん」の連載を開始

その後40年間連載は一度も欠かさず

今月で480回になった記事が毎日新聞で取り上げられた。




長崎原爆を描き続けるマンガ家。西山 進_a0096313_07210813.jpg


西山さんは,(うっ滞制皮膚炎)という火傷のような痛みを伴う

炎症で入院しているが、病気はそれだけでは無い。

3年前には胃癌の手術をし、2年前からは肺気腫で酸素ボンベが

手放せなくなった。

それ以降4ヶ月に一度の入院を繰り返す生活で、深刻な状況なのだが

会うと冗談しか言わないし、常に笑っている。



長崎原爆を描き続けるマンガ家。西山 進_a0096313_07211243.jpg


そんな西山さんだが2週間前に病院へ車で送る途中

戦争中の暮らしより「今の方がとてもつらい」と

弱音を口にした。

認知症と腎臓に病を抱え入退院を繰り返す奥さんを

この体で介護しているのだから

その忍耐力は恐れ入る。




長崎原爆を描き続けるマンガ家。西山 進_a0096313_07211806.jpg



西山さんは8月12日に退院し、

奥さんは29日に退院することが決まった。

奥さんを自宅で看取る覚悟を決めたと言う。



長崎原爆を描き続けるマンガ家。西山 進_a0096313_07465343.jpg

老いて、支え合う姿にいつも勇気をもらう。




by whosanf | 2019-08-10 07:49 | | Comments(0)

父を看取る。


平成27年7月15日午後6時38分。



今年の3月から末期ガンの症状により自宅で終末医療をつづけて来た父が

87年の生涯を終えた。



父を看取る。_a0096313_10194138.jpg




年齢の割には酒量が多く、一見丈夫そうに見える親父だったが、

54才で痛風を発症し、以後、胆石、前立腺がんと発病し、晩年は

たくさんのくすりを飲み、布袋さんのようにふくらんだ腹を抱えて

2週間おきに通院する不健康な日々を送っていた。



昨年の暮れ頃から食べる量が減り、会うたび目に見える程やせて行った。





今年の3月に入り、近くにあるかかりつけの医院でエコー検査をうけたところ、

腎臓と肝臓の間に黒い影が見つかった。


3日後、別の病院で精密検査を受ける事になり同行した。

私はやせた父を見て「やせて男前が上がったね。」と声をかけた。


MRI 検査の結果、右後腹部はっきりと大きな腫瘍が見つかり、即入院となった。




父を看取る。_a0096313_1242444.jpg





担当医は若く、病理検査を受けないと悪性か良性か判断は出来ないが、

高齢の父の場合、病理検査による体への負担はかなり大きいと説明した。

ガンだった場合、抗がん剤やその他の治療は受けないと父に確認していたので

ガンの治療や病理検査を受ける事をその場で辞退し、

良性腫瘍である事をを前提に抗生薬治療を2週間受けた。が、期待した効果は

得られず、悪性腫瘍の可能性が高まった。

この時点で治療は終了し退院する事になったが、

退院後は病理検査を受けていないので緩和ケアの出来る

病院への転院は難しいとの説明があり、本人の希望で自宅に戻った。



父を看取る。_a0096313_1243419.jpg




父は退院時「医者に見放された。」と落胆したが

「この歳まで生きて来てなんの後悔も無いと。」強気なことを言った。

父を家に連れ帰った後、自宅での介護に不安があったので

かかりつけの主治医に相談したところ、

痛みが出始めるまでの間自宅で過ごし、何かあれば

往診してくれると言ってくれた。

家に帰ってからの父は、しばらくは気丈に振る舞っていたが

死の宣告を受けた後、過ごす時間はとても長く感じる様で

時々弱音を口にした。



父を看取る。_a0096313_11525494.jpg




日に日に食欲は減退し、歩く事さえできなくなる程弱っていった。

退院から2ヶ月後の経過観察の時には立ち上がる事も出来なくなり

母と二人で台車に座布団を敷き父を車まで運んだ。

検査では腫瘍が以前より大きくなっていて、痛みが出始める

段階に入っているからとふたたび入院を勧められたが、

父母が自宅での生活を切望し、家に帰った。



父を看取る。_a0096313_11523446.jpg




主治医は末期を癌の痛みは激しく、家族が最後まで看るのは相当に覚悟が

いると言いった。

その言葉に私の気持ちは怯み、

入院の方向で父母を説得する方に傾いた。

その後も自宅で過ごす父は日に日に弱まり食べ物を受け付けなくなった。

その頃主治医から訪問看護を紹介していただき、週に2度の訪問看護と

一度の往診が始まったが、父が夜に痛みを訴えるようになると、母に

負担が重くのしかかった。



父を看取る。_a0096313_1153814.jpg



このままでは母も倒れると危惧し、主治医や訪問看護の方からも

指摘を受けるようになったが、父母も私の妹も自宅での看取りを切望したので

家族で話し合い、自宅での看取りを決め、交代で寝泊まりする事にした。

主治医と訪問看護の方にその事を話すと、

自宅での看取りに全面的に協力しますとの心強い返事をいただいた。


その頃からは痛み止めも、飲み薬から座薬に変わり、痛みの周期も

短くなって行った。

飲み物も食べ物も受付無くなった頃、父は私を見ては手を合わせる仕草をした。

一周間がすぎた頃、母が明け方に父に、「もうこれ以上痛みに耐える

自信が無いので先に逝かしてくれと告げられた。」と言った。

その後あまりの衰弱ぶりに一度点滴をした。

点滴の後、父は訪問入浴で風呂に入りホッとした表情を見せたと、

その場にいた母と妹から聞いた。

その2時間後に「父の息づかいが荒くなった。」と、

妹から携帯に連絡が入り、電話口からは母が父親に叫ぶように呼びかける声がした。

仕事場にいた私は自分を落ち着かせ「救急車は呼ぶな。」と

告げ、急いで家に向かった。

が、10分程して父が息を引き取ったと連絡を受けた。

家に着くと穏やかな表情の父が横たわっており、

先に駆けつけたいた二人の看護士に感謝の言葉を伝えた。

その後、主治医が訪れて脈を取り臨終を告げた。

お世話になった看護士さんと一緒に

父がお気に入りだった背広に着せ替えたが、

あまりにもダブダブで

その姿をみたときに皆の前で涙があふれた。



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核家族化、少ない家族人数、希薄なご近所関係…。

一人介護、老老介護、認認介護、身寄りのない高齢者…。

直面したとき社会の抱える負の問題は個人に大きくのしかかるが、

向き合わなければ解決の糸口さえ見つからないと実感した。

命の尊さを最後に教えてくれた父に感謝する。




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by whosanf | 2015-08-01 10:00 | | Comments(0)

火野葦平旧宅「河伯洞」

平成26年12月16日。

一月程前、映像ディレクターのT氏から若松火まつり物語

というDVDが届いた。

DVDには若松出身の火野葦平の足跡が編集されており

改めて火野葦平に対する興味を持つきっかけとなった。

 火野葦平  本名「玉井勝則」。

明治39年12月、父・玉井金五郎、母・マンの長男として

北九州市若松に生まれた。

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当時若松は筑豊炭田から掘り出された石炭の積出港として

にぎわっており、父、玉井金五郎は積み出し人夫

(通称ごんぞうと呼ばれた)を

たばねた沖仲仕「玉井組」を営んでいて、後に自伝的作品、

花と竜にその姿が描かれている。


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経歴


中学校時代から文学に関心をよせ活発に活動。

第一高等学院入学後、童話集を自費出版する。

1926年(大正15年)、早稲田大学英文科に入学し、

小説や詩を発表していたが、

1928年(昭和3年)二月、兵役で福岡第24連隊に入営。

所持品にレーニンの訳書を持っていたのを見つかり

伍長に降格され除隊となった。

入営中、父親が大学に退学届けをだしていたので除隊後は、

家業の沖仲士の組頭「玉井組」を継いだ。

これを機に火野は文学書を全て処分し左翼関係書籍に没頭、

若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動にも取り組む。

1932年(昭和7年)検挙されて転向し、

地元の同人詩誌「とらんしつと」に参加して再び文学活動を開始する。

1930年(昭和5年)8月に日野徳七の養女で

芸者の徳弥こと日野ヨシノ(良子)と駆け落ち結婚、

9月には長男闘志が生まれる。

1934年(昭和9年)筆名を火野葦助から火野葦平にあらためる。


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1937年(昭和12年)に日中戦争に応召し、出征前に書いた

『糞尿譚』が翌年に第6回芥川賞を受賞し、

戦地で授賞式が行なわれた。

その後報道部へ転属となり戦闘渦中の兵隊の生々しい

人間性を描き、戦地から送った従軍記『麦と兵隊』が

評判を得て人気作家となり、

帰還後も「兵隊作家」ともてはやされた。

火野葦平旧宅「河伯洞」は葦平が日清戦争に従軍している時

『麥と兵隊』の印税で、

父親の玉井金五郎が葦平さんのために建てた家で、

平屋建57.27坪。

建築費が11,454円。昭和15年4月に完成している。

郵便葉書が2銭の頃だから、豪邸だ。


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だが、葦平は戦友が命を投げ出して戦っているときに、

そんな金で家などつくらないでくれ、と戦場から手紙を出し

「戦争未亡人の会」に寄付する様懇願している。

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太平洋戦争中も各戦線におもむき、

従軍作家として活躍した。

攻略直後の南京に入り、それに至る進撃路において

捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いている。


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戦後は、「戦犯作家」として戦争責任を厳しく追及され、

1948年(昭和23年)から1950年(昭和25年)まで

公職追放を受けるが、

追放解除後も、若松の「河伯洞」と東京の「鈍魚庵」を飛行機で

往復するなど活動し、九州男児の苛烈な生き方を描いた

自伝的長編『花と竜』

など数多くの作品によって文学的力量を発揮し、

再び流行作家となった。


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60年安保発効の五日後の1960年(昭和35年)1月24日、

自宅の書斎で死去。享年53。

晩年は健康を害していたこともあり最初は心臓発作と言われたが、

死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、

「HEALTH MEMO」というノートが発見された。

そこには、「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、

或る漠然とした不安のために。    すみません。

おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。

その結果、睡眠薬自殺と判明した。

このことは13回忌の際に遺族によりマスコミを通じて公表され、

社会に衝撃を与えた。


同年5月、『革命前後』および生前の業績により日本芸術院賞を受賞。


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三男・史太郎は、「河伯洞」の館長。 

妹の息子(火野の甥にあたる)が、ペシャワール会の医師中村哲である。


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by whosanf | 2015-01-16 16:57 | | Comments(2)

友の死。

昨年7月に胃ガンが見つかり闘病生活を送っていた

友人の住田義久君が、

5月23日午後11時、自宅のある滋賀県近江八幡市

の病院で亡くなりました。

巨漢で100キロを超えていた彼の体重は50キロにまで落ち

闘病のつらさを物語ってていましたが、

最後まであきらめる事無く回復を信じていた様です。

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亡くなる4日前に、彼が開発した幼児向け英語教育ソフトの

お披露目式の案内文が葬儀の後,

奥さんから送られてきましたのでこの場に転載します。


本日は、お忙しい中、

私の「英語教育ソフト開発のお披露目発表」にお集りいただきまして

心より感謝申し上げます。

私は、天から授かりましたお役目である霊視鑑定とは別に、

20年来コツコツとマクロメディア出版

のディレクターというソフトを利用して英語教育のソフトを独学で

開発してきました。

きっかけは、私自身が中学一年の時にはじめて英語の授業にであい、

最初は大変興味をもち、

好奇心にあふれて授業を受けましたが、

次第に緊張から憂鬱、そして恐怖、やがて苦手と

教科書を見るのもいやになってました。

5年前、サイドタウンに引っ越してきて、バネット先生と偶然知り合い、

個人レッスンを受けることになりました。

もちろん、落ちこぼれでチンプンカンプンです。

学生時代の苦い体験がよみがえり、

今も困っている子供たちが大勢いるはずだという思いから、

あらためて、楽しみながら英語と向き合える教育ソフトを

もう一度根底から考え直して開発する

決意をいたし今日を迎えることができました。

現在、ガンの治療を受け乍ら療養生活を送っておりますが、

これも天命だと捉え今後、

このソフトをベースに、自宅を開放して寺子屋教室的たまり場で子供さん、

または、お年を召された

方など自由に交流していただき、豊かな人間力を身につけた子供たちが、

ここから巣立っていける場所に出来たらと希望してます。

滋賀県は、

日本の歴史的観点から見ても古代から大変重要な土地柄であります。

また、今現在、日本も国際社会において、重要な時期に入ってきました。

今後の日本を担っていく子供らを育てて行く時間が必要です。

私の小さい活動がきっかけで今後、

アメーバのようにひろがったいくことを願っています。

このソフトを作るにあたり、教師はバネット先生、

ハード面は友人の西田さんにご協力いただきましたことを感謝いたします。

簡単ではございますが、私の挨拶とさせていただきます。

学生時代、「写真学科に一般教養は必要無いのではないかと。」、

学長に直接抗議に行った

彼の行動力に私には感服しましたが、

霊感を極める為に世界中の秘境を旅した行動力にも驚かされました。

浴びる程飲んでいた酒を、

霊媒鑑定士の看板を上げてからはきっぱりと断った事を先日

奥さんから聴かされました。

これからという時、「ほんとうに残念です。」

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by whosanf | 2013-05-26 12:34 | | Comments(1)

Cocco

Coccoという歌手がいることを娘に聞いて最近知った。

ユーチューブでこの歌を聴いて、胸が熱くなった。

Heaven's hell

作詞:Cocco 作曲:Cocco



ジユゴンの見える丘

2007年に作られた曲で、基地問題に揺れる沖縄の海に現れたジュゴンが着想元になっているとの事。
 
作詞:Cocco 作曲:Cocco


by whosanf | 2011-11-19 13:14 | | Comments(1)

100年前に思いを馳せる。


兄は高校生の時水泳部に所属していました。

兄とは違う高校通っていた私もその縁で、水泳部OBの方々に
は高校時代から長い間お世話になっています。

創部から100周年を迎えたそうで、100周年記念誌を出版することになり、
創部当時に部室脇にかかげられていた看板を表紙用に撮影しました。





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石板に彫られた言葉は当時(明治の終わり頃)の若人の精神を代弁しているのでしょう、

簡潔で、高貴な雰囲気を感じました。


当時は水泳の事を水練と呼び、皆フンドシをしめて泳いでいたそうです。







by whosanf | 2010-11-22 18:13 | | Comments(3)

人!平野虎丸氏




7月26日、大分の狭間に講演会を聴きに出かけました。

そこで聞いた話は,森林や野生生物をを守ろうと、一人で林野庁やその他、

森に関わる不正に立ち向かい30年間その活動を続ける、

平野虎丸」さんと言う人の話です。




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帰り道、道路沿いを流れる由布川の水は夕日で茜色に染まっていました。





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by whosanf | 2009-07-28 10:21 | | Comments(2)

5月25日 午前5時30分。

最愛なる兄(片山和彦)が、

20年に及ぶ長い闘病生活の末55才で永眠いたしました。

兄は高校1年の時、学友の父親の手術中に輸血が必要になり、

輸血をしたそうですが、

針が使い回しであったため、C型肝炎に感染したのです。

20年前に発症し、

インターフェロンの治療の効果も無く、肝硬変、肝臓がんと病状が進み

今年の正月を過ぎたあたりから腹水がたまりだし、

入退院を繰り返すようになり、

5月21日に最後の入院となりました。

自宅で最後の時を迎えたいと切望していましたが、

残念ながら最後の願いは叶いませんでした。

兄とは社会人になってからも共通の友人も多く、

家族ぐるみで休みの度に、あちらこちらに遊びに出かけました。

一緒に久住に丸太小屋を建てたり、四万十川や、

球磨川にカヌーで川下りに出かけたり、

思い出せば楽しい時間を過ごした記憶は尽きません。

それなのに、ここまで具合が悪くなっているとは知らず、

5月の連休前に遊びの誘いの連絡をした時、

兄の奥さんからかなり悪い状況である事を知らされました。

5月5日に兄と一番親交の深かった高校時代の水泳部の先輩後輩が、

兄の自宅で最後の焼き肉パーティーを開いてくれました。

残念ながら兄には焼き肉を食べる程の元気は、

その時には残っていませんでした。

しかし、沢山の友人の励ましでかなり元気づけられた様子でした。

5月21日に「救急車で病院に運ばれた」との知らせを受け、

病院に駆けつけたときにはかなり弱っており

力のない声で、「後2、3日しか生きられん」、「た、の、む、」

と僕に言った後は目を閉じて、苦しそうに眠っていました。

翌日家族を連れ病室を訪ねた時には昨夜の弱り果てた姿とは一変して、

元気を取り戻しており

信じられない事に、奥さんにカツカレーを食べさせてもらっていました。

皆のいる前で1人前を食べきり、「まだくたばらんぞ。」

などと冗談を言い、皆を安心させていました。

回診にきた医者もこの状況でカレーが食べれるとは

「信じられない」と、言ったそうです。

「皆このまま回復するのでは」と、

奇跡が起きる事を願っていましたが、

願いは叶いませんでした。

しかし、昨年3月まで24年間、筑豊地区で中学校の教師として過ごしてきた兄は沢山の卒業生、

友人、知人に見送られる事ができました。

お通夜には650人もの人が参列してくれました。

また、死を通じて人間の存在感、尊さを最後に教えてくれた兄には、

今、悲しみを越えるほどの感謝の気持ちで一杯です。

闘病中にも関わらず大酒を飲み、

激しい運動をして奥さんや子供たちには心配ばかり掛けていましたが、

今年届いた年賀状には、

「心配するな俺には優秀な看護士が妻という立場でついてくれているんだから」と、

書いてありました。

太く短い人生でした。


最後まで私や家族を力づけていただいた皆様、誠にありがとうございました。


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by whosanf | 2009-05-30 12:43 | | Comments(6)