父を看取る。
2015年 08月 01日
今年の3月から末期ガンの症状により自宅で終末医療をつづけて来た父が
87年の生涯を終えた。
54才で痛風を発症し、以後、胆石、前立腺がんと発病し、晩年は
たくさんのくすりを飲み、布袋さんのようにふくらんだ腹を抱えて
2週間おきに通院する不健康な日々を送っていた。
今年の3月に入り、近くにあるかかりつけの医院でエコー検査をうけたところ、
腎臓と肝臓の間に黒い影が見つかった。
3日後、別の病院で精密検査を受ける事になり同行した。
私はやせた父を見て「やせて男前が上がったね。」と声をかけた。
MRI 検査の結果、右後腹部はっきりと大きな腫瘍が見つかり、即入院となった。
高齢の父の場合、病理検査による体への負担はかなり大きいと説明した。
ガンだった場合、抗がん剤やその他の治療は受けないと父に確認していたので
ガンの治療や病理検査を受ける事をその場で辞退し、
良性腫瘍である事をを前提に抗生薬治療を2週間受けた。が、期待した効果は
得られず、悪性腫瘍の可能性が高まった。
この時点で治療は終了し退院する事になったが、
退院後は病理検査を受けていないので緩和ケアの出来る
病院への転院は難しいとの説明があり、本人の希望で自宅に戻った。
「この歳まで生きて来てなんの後悔も無いと。」強気なことを言った。
父を家に連れ帰った後、自宅での介護に不安があったので
かかりつけの主治医に相談したところ、
痛みが出始めるまでの間自宅で過ごし、何かあれば
家に帰ってからの父は、しばらくは気丈に振る舞っていたが
死の宣告を受けた後、過ごす時間はとても長く感じる様で
時々弱音を口にした。
退院から2ヶ月後の経過観察の時には立ち上がる事も出来なくなり
母と二人で台車に座布団を敷き父を車まで運んだ。
検査では腫瘍が以前より大きくなっていて、痛みが出始める
段階に入っているからとふたたび入院を勧められたが、
父母が自宅での生活を切望し、家に帰った。
いると言いった。
入院の方向で父母を説得する方に傾いた。
その後も自宅で過ごす父は日に日に弱まり食べ物を受け付けなくなった。
その頃主治医から訪問看護を紹介していただき、週に2度の訪問看護と
一度の往診が始まったが、父が夜に痛みを訴えるようになると、母に
負担が重くのしかかった。
指摘を受けるようになったが、父母も私の妹も自宅での看取りを切望したので
家族で話し合い、自宅での看取りを決め、交代で寝泊まりする事にした。
主治医と訪問看護の方にその事を話すと、
自宅での看取りに全面的に協力しますとの心強い返事をいただいた。
その頃からは痛み止めも、飲み薬から座薬に変わり、痛みの周期も
短くなって行った。
飲み物も食べ物も受付無くなった頃、父は私を見ては手を合わせる仕草をした。
一周間がすぎた頃、母が明け方に父に、「もうこれ以上痛みに耐える
自信が無いので先に逝かしてくれと告げられた。」と言った。
その後あまりの衰弱ぶりに一度点滴をした。
点滴の後、父は訪問入浴で風呂に入りホッとした表情を見せたと、
その場にいた母と妹から聞いた。
その2時間後に「父の息づかいが荒くなった。」と、
妹から携帯に連絡が入り、電話口からは母が父親に叫ぶように呼びかける声がした。
仕事場にいた私は自分を落ち着かせ「救急車は呼ぶな。」と
告げ、急いで家に向かった。
家に着くと穏やかな表情の父が横たわっており、
先に駆けつけたいた二人の看護士に感謝の言葉を伝えた。
その後、主治医が訪れて脈を取り臨終を告げた。
お世話になった看護士さんと一緒に
父がお気に入りだった背広に着せ替えたが、
あまりにもダブダブで
その姿をみたときに皆の前で涙があふれた。
一人介護、老老介護、認認介護、身寄りのない高齢者…。
直面したとき社会の抱える負の問題は個人に大きくのしかかるが、
向き合わなければ解決の糸口さえ見つからないと実感した。