なかなか畳の上では死ねない。
2010年 07月 05日
その伯母が5月21日に亡くなった。
早いもので今月8日で四十九日になる。
伯母は87才でなくなった。
伯母には2才年下の妹が居て二十歳過ぎに発病したリュウマチにより手足が不自由なため
一人暮らしは無理なのだが、その伯母が一人取り残された。
伯母は5年前に何気なく受けた健康診断で食道がんが見つかった。
その時がん細胞は15センチの大きさで即入院と言う事になったが、
医者も手遅れの状態だとはっきり言った。
入院する日、近くにある八代宮のお堀の前で遺影の撮影をし、暗く落ち込む
2人を無理矢理笑わせた。
その日から2人の伯母の世話に行った私の母は半年後、ガリガリにやつれ帰って来た。
丁度同じ時期、C型肝炎で闘病を続けていたに私の兄の病状は肝臓がんへと進行していた。
その兄は昨年5月に病院で亡くなったが、死ぬ直前まで自宅に帰りたがっていた。
兄は入退院を繰り返し私の前ではいつも冗談ばかり言っていたがある日枕元には
(病院で死なないために)と題した本が置かれていた。
伯母は入院してから放射線と抗がん剤による治療を繰り返し、抗がん剤による副作用もほとんど無く
何事も無かったように元気を取り戻した。
今年の2月に再び具合が悪くなるまでは食欲もあり、
私が訪ねると年の割には脂身の多い肉を好んで食べていた。
2月からは私の両親が2人そろって介護に行っていたが、男尊女卑という時代に育った父を含め
3人の面倒を見ていた母はひと月でダウンしたために私と妹が交代で介護にする事になった。
同時期に訪問介護を2人に勧めたが説得するのまでにひと月を要した。
熊本では頑固者の男を(肥後もっこす)と言うが2人ともそれに負けない程の頑固者
で大変だった。
亡くなった伯母には若い頃縁談があったそうだが、変わり者の祖父はスーツにステテコ姿で
見合いの席に着きこの話を破談にした。
名前を片山熊八と言った。
伯母2人は祖父母とともに商店街で小さな玩具屋を営んでいたが、その店も止めて30年以上になる
町屋づくり独特のうなぎの寝床の様な店の奥にこじんまりとした住居を建て店は人に貸していたが地方の商店街が衰退した時期と同時に借り手も居なくなり、祖父母が亡くなってからは国民年金にたよった生活を2人で細々と続けていた。
私が介護を引き継いでひと月もしないうちに伯母は腹水による腹部の圧迫で腸が痔瘻のように
飛び出しひどく痛むからと再び入院したが、その時は全身に癌が転移しており余命は持って半年
と医者に告げられた。
最後の時間を自宅で看取ろうと自宅へ帰した。
そんな伯母は亡くなる一週間前まで買い物と洗濯だけをヘルパーさんに頼んで自炊を続けていた。
ふだんはお尻が痛くて椅子に座れないので立ったままで食事をとり、きついときは横になったまま食べていた。
妹を置いて先には行けないという執念をひしひしと感じた。
亡くなる3日前の昼前、伯母(妹)から電話があり様子がおかしいとの事であった。
聞くとほとんど息をしていないと言う、伯母(妹)もこのまま自宅で看取りたいと言い
本人もその事を生前切望していた。
私も同意し居合わせたヘルパーさんにその事を告げ伯母の所へ向かった。
向かう途中ヘルパーの派遣会社からも再三連絡があり、そのままにしておく様
告げたが到着を待たずに救急車で病院へ運ばれた。
人工呼吸器を口につけられた伯母はそれから2日半の後意識が回復しないまま、何度も
呼吸器をはずそうとしながら息を引き取った。
その時、私も途中駆けつけた両親も憔悴しきっており葬儀をする体力は残っていなかった。
寺の坊さんの反対を押し切って家族だけで葬儀を済ませ翌日には四十九日までの法要を終え
墓に納骨した。
墓の中を覗き込むと新しい骨壺以外に4個の骨壺が並んでいた。
兄はこの墓には入っていない。
兄の骨は時期がくれば球磨川の上流に散骨にゆくつもりだ。
畳の上で死ねなかった思いを、よくカヌーで川下りに出かけた球磨川に流し土に帰そう。
死は決して縁起の悪いものではなく、楽しみなものなのですから。拙者は死んでから会いたい人がたくさんおります。その方たちに胸を張ってお会いするために一生懸命生きねばと思います。
悲しみとお疲れは未だ癒えないでしょうが、くれぐれもご無理なさいませんように。
温かいお言葉、ありがとうございます。
悲しみはや、疲れは既に残っていません。
昨日つかこうへいさんがなくなりましたね。
私とは同郷で高校の先輩でしたが、今年肺がんが解ってから遺書を書かれていたそうです。
とても潔く、私も死ぬときはこうありたいものです。