火野葦平旧宅「河伯洞」。

平成26年12月16日。

一月程前、映像ディレクターのT氏から若松火まつり物語

というDVDが届いた。

DVDには若松出身の火野葦平の足跡が編集されており

改めて火野葦平に対する興味を持つきっかけとなった。

 火野葦平  本名「玉井勝則」。

明治39年12月、父・玉井金五郎、母・マンの長男として

北九州市若松に生まれた。

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当時若松は筑豊炭田から掘り出された石炭の積出港として

にぎわっており、父、玉井金五郎は積み出し人夫

(通称ごんぞうと呼ばれた)を

たばねた沖仲仕「玉井組」を営んでいて、後に自伝的作品、

花と竜にその姿が描かれている。


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経歴


中学校時代から文学に関心をよせ活発に活動。

第一高等学院入学後、童話集を自費出版する。

1926年(大正15年)、早稲田大学英文科に入学し、

小説や詩を発表していたが、

1928年(昭和3年)二月、兵役で福岡第24連隊に入営。

所持品にレーニンの訳書を持っていたのを見つかり

伍長に降格され除隊となった。

入営中、父親が大学に退学届けをだしていたので除隊後は、

家業の沖仲士の組頭「玉井組」を継いだ。

これを機に火野は文学書を全て処分し左翼関係書籍に没頭、

若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動にも取り組む。

1932年(昭和7年)検挙されて転向し、

地元の同人詩誌「とらんしつと」に参加して再び文学活動を開始する。

1930年(昭和5年)8月に日野徳七の養女で

芸者の徳弥こと日野ヨシノ(良子)と駆け落ち結婚、

9月には長男闘志が生まれる。

1934年(昭和9年)筆名を火野葦助から火野葦平にあらためる。


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1937年(昭和12年)に日中戦争に応召し、出征前に書いた

『糞尿譚』が翌年に第6回芥川賞を受賞し、

戦地で授賞式が行なわれた。

その後報道部へ転属となり戦闘渦中の兵隊の生々しい

人間性を描き、戦地から送った従軍記『麦と兵隊』が

評判を得て人気作家となり、

帰還後も「兵隊作家」ともてはやされた。

火野葦平旧宅「河伯洞」は葦平が日清戦争に従軍している時

『麥と兵隊』の印税で、

父親の玉井金五郎が葦平さんのために建てた家で、

平屋建57.27坪。

建築費が11,454円。昭和15年4月に完成している。

郵便葉書が2銭の頃だから、豪邸だ。


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だが、葦平は戦友が命を投げ出して戦っているときに、

そんな金で家などつくらないでくれ、と戦場から手紙を出し

「戦争未亡人の会」に寄付する様懇願している。

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太平洋戦争中も各戦線におもむき、

従軍作家として活躍した。

攻略直後の南京に入り、それに至る進撃路において

捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いている。


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戦後は、「戦犯作家」として戦争責任を厳しく追及され、

1948年(昭和23年)から1950年(昭和25年)まで

公職追放を受けるが、

追放解除後も、若松の「河伯洞」と東京の「鈍魚庵」を飛行機で

往復するなど活動し、九州男児の苛烈な生き方を描いた

自伝的長編『花と竜』

など数多くの作品によって文学的力量を発揮し、

再び流行作家となった。


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60年安保発効の五日後の1960年(昭和35年)1月24日、

自宅の書斎で死去。享年53。

晩年は健康を害していたこともあり最初は心臓発作と言われたが、

死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、

「HEALTH MEMO」というノートが発見された。

そこには、「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、

或る漠然とした不安のために。    すみません。

おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。

その結果、睡眠薬自殺と判明した。

このことは13回忌の際に遺族によりマスコミを通じて公表され、

社会に衝撃を与えた。


同年5月、『革命前後』および生前の業績により日本芸術院賞を受賞。


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三男・史太郎は、「河伯洞」の館長。 

妹の息子(火野の甥にあたる)が、ペシャワール会の医師中村哲である。


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by whosanf | 2015-01-16 16:57 |


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