福岡県北九州市小倉北区魚町「旦過市場」
2015年 01月 13日
市場の発生の様子
旦過市場の発生は大正2、3年頃で、
場所は住宅地や商店のある魚町、鳥町、
紺屋町などのちょうどはずれ、
神獄川の川岸の湿地帯で、茸の生えているような空き地だった。
旦過橋を渡ると宗玄寺近辺、馬借の辺りにはまだ商店があったが、
その間に穴があいたように空き地になっていたと思われる。
この空き地に玄界灘のいわしを積んだ伝馬舟が神獄川を
のぼって川岸に舟をつけ、網ごと川岸に荷を揚げ、
空き地で売買を始めたのである。
小倉の町と他の町をつなぐ幹線道沿いに近いこと、
周囲に古くから住宅街があることなどから繁栄し、次第にその数も増え、
自然に近郊各地から野菜や果物をもった商人や田川方面
からは薪を積んでくる者などが集まり、市場的な賑わいを見せ始めた。
当時の市場は現在の市場の南端部分に主にあった。
そのうち商人の数が増えるようになると、
川下から一の組、二の組、三の組と市屋のような仮設の
店舗が建てられるようになり、現在の市場の原型を作り始める。
中央市場や新旦過の辺りは荷を積んできた場所のつなぎ場や、
一時的な倉庫として活用されてきたが、
ほとんど広々とした空き地で、
小倉の祭の折りなどには軽業や化け屋敷、
首抜け、相撲などの掛け小屋ができ、賑わっていた。
日常的に人が集まるようになると、
河面には広島から回航してきたという”かき船”が浮かび、
冬にはかき、夏はうなぎや鮮魚料理のぼんぼりをかかげて
情緒ただよう姿を見せて、小倉の庶民の台所として、
また時にはハレの場として賑わいを見せるようになっていた。
昭和に入り、旦過の市場は卸と小売りの両方の機能をもった
市場として成長した。しかし、この頃から小倉湾の潮が徐々に
退き始め、神獄川の水深がかなり浅くなって漁船も船底
がつかえるようになってきたため、
昭和12~13年(1937~1938年)頃、旦過の主な
卸売りは当時の魚町四丁目にあった魚市場の方に移されていった。
その後も魚青果を主体とした最寄り品の小売り市場は
拡大し、ついに神獄川の河川上にせりだす形で
木造の小売店鋪が建てられるまでになったのである。
旦過の市場はその後も小倉市民に新鮮な生鮮食料品が安く、
手軽に手に入る所として親しまれるが、
戦争が激しくなってきた昭和18年(1943年)、
強制疎開を命じられてこの木造建築物は
強制撤去させられてしまう。
市場の通りより東側の商店は営業を続けたが、
そのうち統制経済下におかれて市場本らの機能をはたせなくなっていった。
戦時中機能をはたさなかった市場も戦後すぐに商人達が再び集まり、
生鮮産品を扱う市場として再開された。
なかでも現在では河川法によって許可されてない敷地に
市民に食料品を供給する重要性と根を張った商売の経過
から条件付きで認められてきた店舗は旦過市場の
一方の軸として今日の繁栄を築いてきた。
昭和30年を前後して戦後のヤミ市的な建物から現在の店舗
へと建て変わり市場組織も旦過商業協同組合、
小倉中央市場協同組合が設立され市場としての最盛期を
迎えることになった。
その後、徐々に集まった人口のドーナツ化、
大型店舗の郊外進出に直面したが
、都心の商業施設の拡大に伴う飲食業務向け販売の拡大によって
今日まで商店街の危機をのりこえてきた。
「以上の記事は、旦過市場ホームページより転載。」
こんな市場というか、商店街が残っているんですねえ。
行ってみたいです!いつかご一緒させてください(菊^――^菊)
「2011年3月の東日本大震災では1階部分に津波が押し寄せたが、4月1日から営業を再開している。釜石のウニ、ホタテなど季節の新鮮な海の幸や山菜のほか、土産品、食事処などが揃い、店舗の外では朝市が開催されている。」そうです。