酔眼的日常を写真日記でつづります。リンクフリーです。写真の無断転用は禁止致します。


by whosanf
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広島

五月の連休両親とともに広島を訪ねた。

母のふる里は広島。

市内から5キロ程の段原山崎町という地区にある。

原爆投下時小高い山(比治山)に守られ近郊の町としては唯一

戦火を免れた地帯で、今から20年前までは戦前の姿を残した町並みが

一帯に残っていた。

母の実家は原爆の衝撃で傾いていたどこもかしこも建具がゆがみ、きちんと

戸がしまる窓は無かった。

幼少の頃に見た原爆ドームと母の実家は記憶の中で重なりいつしか

焼き付いた。




下の写真は20年前。

広島の家が取り壊されると聞き、駆けつけて撮影した時の様子。

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その地に暮らし続けてきた叔父が、2月に85才で胃ガンで亡くなった。

危篤の知らせを聞き昨年12月末、15年ぶりに訪れた広島の姿は以前とはすっかり

様変わりしており、叔父の住んでいた場所も再開発できれいな新興住宅地になっていた。



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原爆投下から68年。

被爆当時母は田舎に疎開し、叔父は広島郊外の軍需工場に学徒動員されていた。

原爆が投下された日は日曜日で、叔父は前日実家に休暇で戻る予定だったが

汽車に乗り遅れたために被爆を免れ、母は友人と市内に海水浴に行く予定だったが

泳げなかったので参加せず難を逃れたが、親しい友人は皆亡くなった。



叔父は家に残った叔父の両親や友人を心配し、一昼夜歩き続け原爆投下の2日後

市内へもどり惨状を目の当たりにした。

幸い比治山の影になったおかげで実家と両親は無事だったが、市内に住む

友人を捜し、瓦礫のトタンをめくりながら、友人を探しまわったため被爆した。

国が被爆者の診療を開始したのは原爆投下から10年も経ってからで、

叔父が被爆手帳を手にしたのは今から15年前の事だった。

叔父はなぜだか著しい原爆症は出なかった。

しかし、母も叔父も多くの友人知人を亡くし、被爆者として相当な差別を

世間から受けてきたという。





私はこれまで広島へは幾度と無く足を運んでいる。

 が、小学校2年の時、原爆資料館を訪れホルマリンズに浸かった胎児を見て以来

ドームには近づかなかった。

今回一緒に行った両親を実家に残し、一人でドームのまわりを歩いた。

「じっくり見たのは初めてだな〜」そうつぶやきながら。

明日から行われるフラワーフェスティバルの準備で平和通りは道路脇に露天が立ち並び

にぎわっていた。



近代化するビルに埋もれたドームはひっそりと建っていた。


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Commented by サムライ菊の助でござる^^ at 2014-06-22 08:09 x
昭和の建物がほとんど姿を消し、あとは人間が語り伝えるだけとなりましたね。忘れた頃に戦争はヒタヒタとやってくるような気がいたします。
Commented by whosanf at 2014-06-24 16:48
菊之助さん。
菊之助さんは日頃から自然にとっぷりと浸かった生活をしておられますから、現代の不自然な状況がひしひしと解るんでしょうね。
                  生物学的に貴重な存在です。^^
by whosanf | 2014-05-17 17:46 | Comments(2)